『蘇りの恋』10/17福井駅前短編映画祭にて上映
福井駅前短編映画祭にノミネートされた。
ポスターを作らないといけないといけなくなったので急遽、自分で作った。PHOTOGRAPHER HAL紹介のデザイナーさんにやってもらう案もあったのだが、自分なりにビジュアルと売りが整理できたのでよしとしよう。突貫工事ながらそこそこいい出来ではないか?(自画自賛)これでこの映画に興味を持ってくれる人が増えればよいが。
『蘇りの恋』は結局15個くらいの映画祭にエントリーしたけど、ノミネートされたのは初である。初ノミネートが地元である福井だというのはじつに光栄である。会場は、テアトルサンク。小さい頃からよく通った映画館だ。福井駅からいちばん近くて大きい映画館じゃないかな?審査員長は俳優の津田寛治さん。福井出身だ。大学を卒業して初めて入った現場で主演をされていた。やはり縁があるのかもしれない。『蘇りの恋』を気に入ってくれているとよいのだが。
宣伝期間が2週間しかない。予告編もつくらなきゃ。とりあえずは瀬川くんが作ってくれたスナメリの詩の予告編を。
映画祭ウェブサイト
福井駅前短編映画祭 | Fukui Short Film Festival
お近くの方はぜひ!
これを期に初福井もオススメですよ〜
恐竜、越前おろし蕎麦、ソースカツ丼、寿司、カニ、米、日本酒!
また開催が近くなったらお知らせいたします。
要するに福島というのは奇跡である
『ハルをさがして』おのまち上映会
満員御礼。194人入る会場に、なんと260人ものお客様にご来場いただきました。映画の上映は、大ウケ。こちらが想定もしていないところで笑いを取れたり、ロケ地に故郷が映るだけで拍手が起きたりと、じつにあたたかい上映会でした。上映後のアンケートでとっても感動したご意見があったので転載する。
震災で引っ越してしまった友達のことを
いまだに「◯◯くん、どこにいっちゃったのかなあ」と心配する息子がいます。
なんだか涙がとまりませんでした。ーー女性・38歳 言語聴覚士
梅沢和木『彼方クロニクル此岸』於「市街劇 怒りの日」展@いわき 菩提院
カオス*ラウンジの梅沢和木くんの新作は襖にプリントされた特大のコラージュ作品である。彼はムサビの僕の後輩である。梅沢くん、通称「梅ラボ」は在学中からゲームやアニメなどのサブカルチャーをコラージュした特異な作品を作り続けていた。近年は東浩紀編集の『福島第一原発観光地化計画』や雑誌『ゲンロン』などの表紙をずっと手がけていて、注目株のアーティストである。今回の展示は、福島のいわきをモチーフに、特大の襖にプリントされた作品である。オタクと宗教と震災の混沌を写し取るアートだった。お寺での展示というのもまたいい。菩提院には巨大な墓場があった。死が濃密な場所でこそ輝くアートというものがある。そもそもアートというのは祈りである。地下で宗教と芸術はつながっているのである(©近藤光博)。
「ハルをさがして」おのまち上映会
2012年の福島を舞台にした映画「ハルをさがして」おのまち上映会
★小野町をロケ地とした映画が完成し、上映会を開催します!
昨年の夏に、主にいわき市と小野町をロケ地として撮影された映画「ハルをさがして」の「おのまち上映会」が開催されます。
9月26日(土)14:00~上映開始(13:30開場)
場所は、小野町勤労青少年ホーム 小ホール
無料
お問合せは、小野町商工会 担当:二瓶まで
電話 0247-72-3228 FAX 0247-72-3256
※主演女優、佐藤菜月さんの舞台挨拶あり!
ストーリー
2012年夏。昇(ノボル)は都内にある学校に通う中学3年生。同じクラスの勝(マサル)、寛樹(ヒロキ)と冴えない学校生活を送っていた。そんな昇が思いを寄せる同じクラスの千恵子は、東日本大震災、飼っていたハルという名の犬を残し、両親と福島から東京に自主避難してきていた。とある日、昇たちは千恵子から「ハルを一緒にさがして」とお願いされる。4人は福島に向かう。ハルを探すひと夏の冒険が始まった。
Don't Follow the Wind 展を見にいった、とは言えない
ライターの木村奈緒さんにオススメされたので、『Don't Follow the wind ーNon-Visitor Center』展をワタリウム美術館に見にいった。素晴らしかった。
本展は、広島の空に飛行機で「ピカッ」という文字を描いたり、岡本太郎の「明日への神話」に原発を描きたしたりと、なにかとセンセーショナルな活動で注目されるアーティスト集団、Chim↑Pomが発案したものである。ガイド文を引用する。
本展覧会「Don't Follow the wind ーNon-Visitor Center」は、福島の帰還困難区域で開催されている展覧会「Don't Follow the wind (以下、DFW)のサテライト展です。
「DFW」は、2015年3月11日にはじまった国内外12組のアーティストによる国際展です。しかしこの展覧会「DFW」は、「今」は直接見ることができません。それは会場が2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震による東京電力福島第一原子力発電所事故に伴う放射性物質による汚染のため、一般の立ち入りが制限された地域にあるからです。「DFW」は政府によって区域の封鎖が解除される「そのとき」まで人々の想像力の中で見られ続ける展覧会なのです。
そのような状況をふまえ、本展では「DFW」にまつわる資料展示や、帰還困難区域に設置された作品に関連した各作家の展示、そして「DFW」のドキュメント映像などを展示しています。これは、4年以上たった現在もなお多様で深刻な問題が続く事故に対し、アーティストたちが真摯に向き合い、さまざまな角度から鑑賞者の想像力を喚起する試みです。
この展示は「仮」の展示である。帰還困難区域に「真の」展示場がある。↑これはその鍵である。
コンセプトも素晴らしいし、デザインもキュレーションも良かった。
思えば「風」を感じる展示だった。園子温のドキュメント映像では、通常の映像作りでは嫌われるボボボという風切り音がつねに響いていた。一時期、音屋をやっていた僕からしたら不快な音声だ。だが、ボボボという「吹かれ音」ほど風を感じるサウンドもないのだ。ドキュメントも、展示も、音の鳴る作品が多数あって、ボコボコ風に吹かれていた。
Don't Follow the Windとは「風を追うな」という意味だそうだ。原発事故後、みんなが北へ逃げる中、海釣りの経験があって風の流れを読むことができ、逃げる方向が違うと気づき東京方面へ逃げたという被災者の話に由来しているんだとか。Chim↑Pomリーダーの卯城さんは「風化、風評、原発事故後に関しては、風にまつわる言葉が多い。風は見ることができないし、見ることができないものに汚染もされた」と説明する。
僕はこの展示を見たとは言えない。不完全なものを見てしまったのだ。真にかれらのアートを堪能できるのは福島の帰宅困難区域が解除された時だ。
《ウェブサイト》Don't Follow The Wind.
Don’t Follow the Wind: 展覧会公式カタログ2015
- 作者: Chim↑Pom,椹木野衣
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2015/09/29
- メディア: 単行本
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たぶん人生で必要なものはすべて大学で出会った
大学の同級生達に送別会を開いてもらった
とすると、大学のキャンパスというのは、長い目でものを見ることのできる人間を育てる空間だったわけで、安倍さんはそこでしくじったから、大学を壊そうとしているのかもしれない。
建前論を言うなら、大学は、そもそも産業戦士を育成するための機関ではない。
労働力商品の単価を上げるための放牧場でもない。「じゃあ、何のための場所なんだ?」
と尋ねられると、しばし口ごもってしまうわけなのだが、勇気を持って私の考えを言おう。
大学というのは、そこに通ったことを生涯思い出しながら暮らす人間が、その人生を幸福に生きて行くための方法を見つけ出すための場所だ。
きれいごとだと言う人もいるだろう。
が、われわれは、「夢」や「希望」や「きれいごと」のためにカネを支払っている。
なにも、売られて行くためにワゴンに乗りにいくわけではない。(略)
採算は度外視して良い。
大学は、そこに通った人間が、通ったことを懐かしむためにある場所だ。
本人が通ったことを後悔していないのなら、その時点で採算はとれている。小田嶋隆『大学へ行く理由』
<2002年4月撮影、18歳>
美大なんて学費の異様に高い、就職率の低い大学に入ってしまったことを後悔はしない。なぜなら一生巡り会えないであろう友達と出会えたからである。
当時僕が住んでいたボロアパートもまだ建っていた。懐かしさでお腹が痛くなった。藤子不二雄の『ノスタル爺』の気分である。あの頃に帰りたい、とまでは思わないが、浸りたくなることもある。
藤子不二雄異色短編集〈4〉ノスタル爺 (ゴールデン・コミックス)
- 作者: 藤子不二雄F
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- 発売日: 1978/04/15
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だれにもこれからどうなるかわからないという一歩を踏み出せ!
女の子の方がコミュニケーションが開かれているのはなぜだ?
中学生たちと3日間過ごした。
31にもなるおじさんが中学生たちと会話することなど滅多にないので貴重な機会であった。スタッフとしてもキャストとしても、いろんな中学生たちと接したわけであるが、どうもコミュニケーション能力に男女差があるように感じたのだ。なんというのか男の子は「閉じてて硬く」、女の子は「開いていて柔らかい」というような印象を持った。
中学生たちはキラキラ輝いていた。
青春のただなかにいる人は青春のただなかだということに気づけないものだ。
迷いや後悔、夢や恋で彼らの心は埋まっている。
部活動をしている子たちばかりだった。
毎日健康的な汗をかいていた。
13才特有の汗っぽい匂いと土の香りがした。
富士山をいだく静岡の地で彼らはどんな大人になるのだろう。
今夜は星が出るよ、神さまはクマのプーさんだって知らなかったかい? 草原では、宵の明星の光がだんだん弱まり、残照も散って、まもなく完全な夜が来て大地を祝福し、あらゆる川を黒く染め、山頂を覆いつくし、最後の岸辺を抱き寄せるだろう。だれにも、だれにも、これからどうなるのかはわからない。見捨てられたボロのように年老いていくことしかわからない。
ーージャック・ケルアック『オン・ザ・ロード』より (青山南・訳)
だれにも、これからどうなるかわからない。
未来は不確定性ゆえに美しい。
こんな話を中学生にしても理解できないかもしれない。
が、君たちは人生でもっとも美しい時期にいるんだよ。彼らの人生に幸多きことを祈る。
行列のできる自主映画作り
とある自主映画の現場にお邪魔している。 自主映画とは、監督主体の映画作りのことである。監督が予算を出し、監督が撮りたいもの撮る。(ほぼ)監督がシナリオを書き、監督が編集をする。映画作りは決して一人ではできない。役者、カメラマン、録音マン、弁当の手配をするヒト、撮影場所を貸してくるヒト・・・。多数の無償の協力のもと、自主映画作りが成り立っている。その際に必要なのは、監督の「人たらし力」のようなものである。この力は計測できない。が、確実に存在する。 映画作りというものは基本的に、「面倒」なものだからだ。面倒に付き合ってくれる方々のおかげで成立している。なので監督というのは得てして腰が低く、愛嬌があり、冗談が巧く、人を巻き込む魅力がある。だがたまに「人たらし力」の欠けた監督というのもいる。巻き込まれるのだけは避けたい、と人に思われる監督がいる。 映画作りというのは才能というよりも、「技術」であると思う。技術であれば学べる。たまに真の天才は技術など学ばなくても傑作を撮ってしまうものだが、そのような天才の出現を期待はできない。ロケーションの交渉をする技術、予算を削減する技術、シナリオを面白くする技術、役者の芝居を引き出す技術、美しい絵を撮る技術、感動を起こす編集をする技術・・・。技術は経験によって厚くすることができるし、他人から学ぶこともできる。だが「人たらし力」は学べるのだろうか。「人たらし力」も一種の才能ではないか?デール・カーネギーの「人を動かす」によれば、人を動かすことも技術である。他人の名前を覚えたり、言葉の使い方を変えたり、無数のテクニックがある。つまり「人たらし力」も技術であるということだ。天性の人たらしもいるが、そうでない凡人の我々は人を動かす技術があるということを戒めよう。厳しい口調で命令したり、指示があいまいだったりするのは非常によくない。行列のできる自主映画作りを目指したいものである。
- 作者: デールカーネギー,Dale Carnegie,山口博
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