時間、パズル、死
映像編集はパズルに似ている。
カットの順番を入れ替え、イン/アウト点を調整し、スリップして、動きや目線が合うところに配置する。そういえば小さいときからパズルをちまちま組み立てるのがスキだった。ワクの部分を先に組み立てるのがコツで、あとはひたすら地味に、輪郭のカタチだけを追っていく。ぼくが物語にも人間にも、わかりやすい輪郭を求めてしまうのはそのせいかもしれない。
しかし、ぼくたち映像作家は「時間」という非常にやっかいなものを扱っているという意識をしばし忘れがちである。時間に輪郭はない。(科学的には)ただ無機質に、等間隔に流れているだけのものに、どうにかして色をつけ、鑑賞者の感情を引きずりだそうとする。人間を描くためだったり、音楽的快楽だったり、絵画的嗜好だったり。
「映画とは現在進行形の死である」ゴダール(だったっけ?)
「もう死んでしまったものの眼から見なさい」タヴィアーニ兄弟
なぜか今日はこの二つの至言がぽんとリンクした。同じことを言っていたのだね。こんなことを考えてしまうのは、精一杯切り詰めて編集した映画がやっぱり2時間半を超えていてなおかつ死ぬほどつまらない映画になっていたから。
これはひどい。脚本はひどい出来なんだけどそれより更にひどい。眠気も逆に吹き飛んで、もう朝だ。また家に帰れなかった。今日は監督チェックがある。なんとかしなければ。脚本にはない、「ロックとはやせ我慢だ」という台詞を追加していた男だ。つまり、ごまかしがきくような男ではない。
こういうときは、ページを破り捨てるくらい大胆なことをやってみるのがよかったりするんだよね