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FilmMaker Ishikawa Shingo

「蘇りの恋」「カササギの食卓」「出発の時間」「あさごはん」などの映画監督、石川真吾のブログです。

永遠も半ばを過ぎて

永遠も半ばを過ぎて (文春文庫)

永遠も半ばを過ぎて (文春文庫)

永遠も半ばを過ぎた。
私とリーは丘の上にいて
鐘がたしかにそれを告げるのを聞いた。
私たちは見上げる。満天の星を。
永遠の書物を。
私とリーはまだその書物を開いたところだ。
いずれにしても、立ち上がりそして立ち去らねばならない。
星々の香気を追って、旅を始めねばならない。私はリーの細い手を取った。

中島らも著「永遠も半ばを過ぎて」を読了した。秀逸なキャラクターたちが「ユーレイが小説を書いた」と称して本を出版し、メディアを騒がす事件を起こす物語だ。主要キャラ3人がじつにいい。写植工と詐欺師と文芸誌編集者だ。職業はキャラクターのたいせつな側面だ。同時に、キャラクターというのは、欲しいものがたいせつだ。楽しくもないが悲しくもない毎日を送る独身で不眠症の写植打ち、波多野善二。善二の高校の同級生で酒がまったく飲めない詐欺師、相川真。縄文期ならもてたであろうハニワ体型の大手文芸誌の編集者、宇井美咲。3人合わせて真・善・美。

波多野善二「おれはね、いつも言葉に洗われるんだ。目から入って脳を伝って、指から流れ出ていく。量が多いほどいい。洪水みたいな奴がいい。それも、意味がないほどいい。写植を売っていると何も考えない。ただ洗われているだけだ。おれは一本のチューブみたいなものだ。とても気持ちのいいもんだよ。」
宇井美咲「その間、この原稿の作者はあなたの身体のどこかで喉を渇かせていたのよ。彼には言葉が必要だったのよ。なにか表現したいことがあったのよ」
波多野善二「冗談じゃない。おれには何も言いたいことなんかない。表現?そんなことをしたら、おれのチューブは詰まって、身体中腐ってしまう」

写植打ちという言葉を扱う人間だからこその矜持が感じられてすごく好きな文章だ。中島らもの小説は、いかに書くか、なぜ書くか、という問いがすべての作品に通底している。いいんだぜ。

岩はこう言った。
"永遠とは私、およびそこに転がっている丸太のようなものだ。切って開いてみよ。そこに切断面はある。これが貴方がたにとっての『世界』だ。
しかしこの切断面に厚さはない。
貴方がたは厚さのない世界に封じられている。
この切断面の集積によって、岩、丸太、宇宙、時間は形を成している。
それがどういう形をであるか、貴方がたに知る術はない。"

この美文は、主人公である波多野善二が睡眠薬でラリって書いた文章だ。詐欺師の相川はこの文章を見て、ある詐欺を計画する。文芸編集者の美咲はセクハラ上司への復讐のため「永遠も半ばを過ぎて」を利用することを思い立つ。「お筆先」で書いた本を出版する、というアイデアをここまですっきりしたエンターテイメント小説にまとめた手腕はじつに見事。ページを捲る手が止まらない。

いつだってこうだ。僕にはプロセスってものがない。テレビのチャンネルを変えるように人生の局面がパッパッと変わっていく。

キキ「ひとつ手に入れると、ひとつ失うのよ。何でも手に入れる男は、鈍感なだけ。失ったことは忘れてしまう。哀しみの感情がないのよ、わかる?」
僕は正直に答えた。
相川真「わからんね。手に入れたいものはたくさんあるがね。手に入れた経験がない」
さらに僕の上にのしかかってくると、キキは酒臭い息を吹きかけた。
「あたしはね、失っていく男が好きなのよ」
「それはひょっとして僕のことかね」

タイトルは違うが映画版も存在する。未見。www.amazon.co.jp

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