FilmMaker Ishikawa Shingo

「蘇りの恋」「カササギの食卓」「出発の時間」「あさごはん」などの映画監督、石川真吾のブログです。

話は変わるけど、愛と恋の違いについて書く

恋は盲目、恋は病気、恋は底ぢから、愛は義務、愛は悲しくて美しい、愛は無償、愛は死よりも冷たい。

婚姻は共同体との契約、結婚は人生の墓場、子はかすがい、共同体の再生産のためには子は宝。

 厚生労働省が5日発表した2014年の人口動態統計によると、1人の女性が生涯に何人の子どもを産むのかを推計した合計特殊出生率は1.42となり、9年ぶりに低下した。05年の1.26を底に緩やかに上昇していたが、前年を0.01ポイント下回った。女性が第1子を産む平均年齢は30.6歳となり、晩婚・晩産が一段と進んだ。出生数は100万人割れ目前で、人口減少と少子化への対策が急務であることが改めて浮き彫りになった。
ーー日本経済新聞2015.6.5
http://mw.nikkei.com/tb/#!/article/DGXLASFS05H68_V00C15A6000000/

まず女性が子を生む平均年齢が30.6歳というのに驚いた。晩婚化が進んでいるとは聞いていたが30歳をオーバーしていたとは……。


これは「マズロー欲求段階説」と呼ばれる、人間の欲求をヒエラルキー化したものである。低次の欲求が満たされるに従ってより高次の欲求に移行していくものとられる。「愛と所属の欲求」よりも「認められることへの」欲求の方が高く、最も高位なのは「自己実現の欲求」である。愛が満たされれば自己実現を人間は求めるものらしい。

んじゃあ、愛っていったいなんやねん。よく分からなくなってきたところでまたしても中島らもの素敵な文章に巡り合ったので丸々引用して今日の記事は終わりとする。これほどに見事な文章のあとに書くぼくの言葉はない。

出会いと別れについて

 山岸凉子さんの漫画だったと思う。タイトルは忘れた。海沿いの閑居にひっそりと暮らしている美しい未亡人がいて、たまたまそこを訪れた若い主人公に、”あなたのような美しい人が、どうしてこんな人里離れたところに引き蘢って暮らしているのか”とたずねられる。その人が微笑んで答えるのに、
「人と出会いますと、それだけ哀しみが増しますから……」
 この言葉が心に残っているのは、そのとき僕が苦しい恋をしていたからだと思う。恋愛は人を高みへと押し上げるが、その高さはそこからすべてのものが見下ろせてしまうような冷酷な高さである。この世のものならぬ至福の中に自分があればあるほど、いつかそのめまいに似た幸福に終わりがくるであろう予感も確固たるものになってくる。始まらなければ終わることもないが、恋愛という音楽が鳴り始めてしまった以上、そこには必ず終わりがくる。永遠にそれが響き続けることはない。
 きたるべきその終楽章(カデンツァ)は、ふたつの和音のうちのどちらかひとつの形態を必ずひとつ選ぶ。つまり、「生き別れ」か「死に別れ」である。このことは、時代が変わり、人が変わるたびにさまざまな表現でいいあらわされるけれど、本質はすべて同じことである。「生者必滅、会者定離」「会うは別れの始めなり」「君よ盃受けとくれ、どうぞなみなみつがせておくれ、花に嵐のたとえもあるぞ、サヨナラだけが人生」なのだ。
 一人の現実の人間に出会って、しかもその人と恋におちることは、考えてみれば奇跡のようなことである。万物が流転して刻一刻と相を変えていく。その金や銀やの無数の糸が絡み合い風に揺れていくうねりの中で、ほんの一瞬の偶然でそこに現出したのが彼女の姿であり、次の瞬間にはもうその姿はない。その一瞬の奇跡と、同じく偶然の幻影にすぎない自分とが出会って愛し合うのである。それは安定した永劫の「無」の中にあってはほんの一瞬の、おそらくは何かの手ちがいによって引き起こされた「有」の出現であろう。いわば、「不可能」と「不可能」との希有な出会いが恋というものなのだ。
 その光芒が激しければ激しいほど、待ち受ける闇は深いものになる。一度でもその闇の深さを垣間見た者は、もう一度それを見ることを峻拒するにちがいない。だから生涯で2番目の恋に心ならずもおちいってしまっていた僕にはこの山岸凉子さんの漫画の中のセリフがもろに奥まではいってしまったのだろう。「人に会えば哀しみが増しますから」というのはよくわかる。それを避けるためにあえて孤独のほうを選ぶのは、むしろ血の熱い人間こそが選ぶ生き方だとも思う。
 僕は今、三十六歳になるが、恋愛に限らずとも、人との新しい出会いはなるべく避けたい。そんな気持ちが徐々に濃くなっていきつつある。年若いうちは、対人恐怖症気味であったにもかかわらず、それを乗り越えてでも新しい出会いを求める気持ちが強かった。しかし、現実に何人もの近しい人を病気や事故や自殺で失っていくと、「出会い」に対してポジティブな感情を持つことができにくくなってくる。「会うは別れの始めなり」ということが、ものの道理としてではなく、自分の感情や痛みの感覚においてわかってくるからだ。
 「失う側」としての痛覚がわかってくると、今度は逆に「失われる側」としての自分の存在についても考え始める。その結果、”生きているうちに、余人から愛されるような存在であってはいけない”のではないか、と妙なことを最近考えてしまう。たとえば僕が死んだときに、残された者の側が、
「ああ。あの人はいつもあんなにニコニコしてうれしそうにお酒を飲んでいた。あのとき、止めたりせずにもっと飲ませてあげればよかった」
 などということがあると、その人はいたたまれないにちがいない。だからできるだけつまらなそうに生きて、「ほんとにあの人は何が楽しみで生きてきたんでしょうね」とお通夜が悪口で盛り上がるような、そういうイヤなおっさんになりたいものである。

——『愛をひっかけるための釘』中島らも

愛をひっかけるための釘 (集英社文庫)

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