FilmMaker Ishikawa Shingo

「蘇りの恋」「カササギの食卓」「出発の時間」「あさごはん」などの映画監督、石川真吾のブログです。

今日は愛は揺れるものを科学する。

「好き」というのは感情である。感情は永遠ではない。

感情というのは日々揺れ動くものである。例えばある人を「好き」になって一緒に住みだしたがある日突然「嫌い」になったとする。こういうことはよくある。洗濯物を片付けないだけで、トイレ掃除を怠っただけで、男女は嫌いあうことがある。感情というものの正体を考えれば、特に不思議なことではない。感情は揺れるものだからだ。

《photo by PHOTOGRAPHER HAL》


「ずーっとずーっと好き」という発言は感情というより、むしろ「計算」なのではないかと思う。現在の感情ではなく未来の感情まで約束しているからだ。「ずっと相手のことが好きである」という宣言は、相手の未来を支配し、自分の感情を殺す言葉である。愛し合う二人はつねに好き同士であり、「いままでもこれからも愛し合っている」というのは、美しい。が、それは一種の狂気を孕んでいる。平均余命が88歳のいま、長すぎる人生を共にい続けるというのは、過酷すぎる恋愛だと思う。相手のことを24時間考えることはできない。自分が消えてしまう。相手のことを思いやるために相手のことを考えるのは1日3時間くらいにしたほうがいい。自分を大事にすることも恋愛においては大事だと思うのである。

女性は恋愛に見返りを求めすぎではないか?

生活保証、未来への安全、一家団欒……。そういう「幸福」への未来志向なイメージは、僕は愛の名に値しないと思うのだ。”それは純粋な恋愛ではない。ただの生活だ。”とでも言いたくなる。女性の読者がサーっと引く音が聞こえる。この言説が女性から嫌われることは僕だって百も承知なのである。「ただヤりたいだけなんでしょ」とつっこまれるのもやむなしである。

しかし僕が思うに、恋と性欲はひじょうに似ている。というか、男においては恋と性欲は区別できないものなのではないかとすら思うのだ。逆に言うと、恋愛の先に結婚と出産を見据えるのは、愛と生活保障をごちゃまぜにしているような気がするのだ。

「女にとって男とは、愛をひっかけるための釘ぐらいの価値しか持ってない」

アンドレ・ジッド

愛は合理的な計算にそぐわない

経済学では、合理的な人間は「効率」という基準で、1日24時間・金を仕事・恋・遊びに割り振っていると考える。経済学では、男性の場合、費用(女性とのデートに振り向ける時間・金)と便益(女性との恋愛から得られる満足)を比較して、便益が費用よりも大きいときに、その恋は「効率」的であると表現する。これが経済学の基本的な思考である。

経済学者のロバート・フランクは、愛が合理的な計算にそぐわない側面があると指摘している。フランクは、哲学者のブレーズ・パスカルの言葉を引用し「費用・便益を合理的に計算する人間には、人を愛することはできない」と指摘している。

だんだん愛とはなんなのかわからなくなってきた

愛をことばでとらえるのは難しい。なぜなら愛はこころだからだ。こころが感じ、身体が反応する。決して頭だけでとらえられるものではない。生物学の知見では愛はどういう定義になるのだろう。愛は遺伝子を運ぶ乗り物を潤滑化するための幻想だ、というような定義になるのだろうか。

<生命の基本仕様>それは女である

地球が誕生したのが46億年前。そこから最初の生命が発生するまでにおよそ10億年が経過した。そして生命が現れてからさらに10億年、この間、生物の性は単一で、すべてがメスだった。<生命の基本仕様>ーーそれは女である。本来、すべての生物はまずメスとして発生する。メスは太くて強い縦糸であり、オスは、そのメスの系譜を時々橋渡しし、細い横糸の役割を果たす"橋渡し"に過ぎないーー。

(福岡伸一『できそこないの男たち』)

あーあ、男ってしょうもねえ生き物だなあ。

できそこないの男たち (光文社新書)

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