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FilmMaker Ishikawa Shingo

「蘇りの恋」「カササギの食卓」「出発の時間」「あさごはん」などの映画監督、石川真吾のブログです。

町山智浩『<映画の見方>がわかる本』

今週のお題「人生に影響を与えた1冊」

映画の見方がわかる本―『2001年宇宙の旅』から『未知との遭遇』まで (映画秘宝COLLECTION)


町山智浩さんの『<映画の見方>がわかる本』-【2001年宇宙の旅】から【未知との遭遇】まで- は大学の映像学科3年生の頃に読んで、非常に影響を受けた本です。映画の見方だけでなく、映画の作り方、生き方まで教えてくれた本がこの本だったような気がします。

こんなに分かりやすい映画評論本はない!

例えば蓮實重彦の映画評論本は複雑なレトリックを駆使し、そもそもなかなか観ることができないような映画について【印象】で語るスタイルで、僕はどうにもついていけなかった。大学時代は映画評論家の村山匡一郎先生に映画史について教わったが、映画100年の蓄積を、映画を見はじめて3、4年の小僧が消化できるはずもなく、映画史もあやふやな理解のままだった。町山智浩のこの本の特異なところは、お勉強ではなくエンターテイメントとして読める映画評論本だというところだ。しかも、みんなが見ている(見やすい)映画を題材にして。

扱っている映画は1960〜1979のアメリカン・ニューシネマ

名作、傑作ばかりであるが、解釈の分かれる映画も多い。特に『2001年宇宙の旅』は最初見た時サッパリ意味が分かんなかった。2度目も寝た。だが、町山智浩のこの本を読むと、『2001年〜』を見返したくなる。映画を見返すと、町山智浩の本を読みかえしたくなる。以下無限ループである。映画と評論の、幸福な関係がそこにはあった。

あんなに面白い『ダーティハリー』もキリスト教がわかるとさらに面白くなる

裁くのは俺だ

ユダヤ、キリスト、イスラム社会において、人間には人間を裁くことが禁じられている。唯一、神だけが裁きを下し、人の命を奪う権利を持つ。神=王の権利を「主権」と呼ぶ。ところがそれでは社会が混乱するので、王、もしくは国家だけが「主権」を代行できると考える。だから主権国家は人を処刑したり、他国と戦争することができる。また、国家の「法」とは神との契約書であり、司法の職員は神の代理人である。
ところが法律は人間が作ったものである以上、万能ではない。警官や裁判官もそうだ。自警主義(ヴィジランティズム)が浮上する。法の許しを得ずに正義を執行する個人を自警(ヴィジランティ)と呼ぶ。裁判官が不足した開拓時代の西武では先に挙げた首吊り刑事ロイ・ビーンなど、自警主義が横行した。スコルピオのように法が裁けぬ悪を裁くため、西武開拓時代からタイムスリップしてきた自警がハリーなのである

ダーティハリー』は小さい頃から親父がビデオで見ていたんで馴染みの深い映画なのだが、不思議な点もすごくいっぱいある。上下の運動が多発するのはなぜ?教会がなんでこんなに多く写るんだろう?とか、公園の頂上でハリーが十字架を見上げるのはなんなんだろう?何度も繰り替えし見て行くうちに溜まった疑問を、キリスト教や当時のアメリカの社会情勢に照らし合わせて、偏執狂的に資料をあたって書いてくれる。「死の天使ダーティハリー」という見出しも魅惑的だ。

時計じかけのオレンジ』とは機械のように感情を統制されてしまった人間を意味する

高校1年生の頃に観てぶっ飛ばされたのがキューブリックの『時計じかけのオレンジ』だ。もの凄く刺激的!カッコいい!笑える!残虐だ!だけどよく分からない……。そもそもタイトルの意味がよくわからなかった。『映画の見方が分かる本』の表紙は本作の主人公、アレックスである。 『時計じかけのオレンジ』とはロンドンの下町言葉の言い回しで、何を考えているのか分からない変人を指すのだという。つまり、機械のように感情を統制されてしまった人間を意味するのだ。基本的なプロットすらバカな高校生だった僕は理解できていなかった。この映画は、欲望剥き出しの邪悪な少年が、国家による「ルドヴィゴ療法」治療の結果、何も抵抗できないロボットに改造されてしまうというストーリーだ。

ジーン・オスケル(映画評論家)「『時計じかけのオレンジ』の悪者は誰で、善い者は誰なんですか?」
キューブリック「そんなに単純に割り切れる話ではない。アレックスという凶悪な存在と、国家権力というそれよりはるかに凶悪な存在との比較でしかないからだ。私は『時計じかけのオレンジ』で問いかけを残している。選択できない問いを。人間の本性が邪悪だからといって、その自由意志を制限することが許されるのか? 自由意志のない人間を人間と呼ぶことができるのか?

そしてニーチェの話になる。大学生のくせに哲学書なんていっさい読んでいなかったバカな大学生だった。町山智浩の本経由でニーチェを読むようになった。今も時折読む。難解だけどしびれるほどカッコいい言葉が乱舞している。「むずかしいけどカッコいい」とか「派手だがかみごたえがある」ものを僕は好むようだ。

「レイプとウルトラ暴力とベートーベンがオレの生きがい」

時計じかけのオレンジ』のポスターに書かれた映画史に残る名コピーだが、これは、ニーチェが『権力への意志』で「生の喜び」の三要素として挙げた「性欲・残酷・陶酔」と見事に一致している。異性を求めること、他者を屈服させること、味覚・視覚・聴覚などで悦びを得ること、この三要素こそが人間の原初的な欲求であるとニーチェは言うが、これを激しく求めることは他人の生の侵害につながる。だから人間の社会は争いが絶えない。
だが、そんな「人間の生のカオス」をあるがままに祝福するのが芸術なのだ。芸術とは「人は(世界は)こうあるべきだ」と理想を押し付けることではない……。『2001年宇宙の旅』でキューブリックは人間の残酷な本性を「乗り越えるべきもの」として描いたが、残酷さがなければ猿は人間になれなかった。残酷さもまた人間のエネルギーの源なのだ。
そして、「若者文化」とは、この「性欲・残酷・陶酔」をセックス、バイオレンス、ロックンロールという形で商品化することだったのだ。

今回このエントリーを書くにあたって『映画の見方が分かる本』を読み返してみて、かなり自分は影響を受けているのだなあと再認識した。映画の見方だけでなく、映画の作り方においてもである。知らず知らずキューブリックのような、説明の少ないエンディングを好んで作るようになっていいった。そういう演出傾向も『2001年宇宙の旅』のナレーションを排したエピソードをこの本で知っていたからかもしれない。映画は意味を凝縮した曼荼羅である。映画には作家がいて、作家には意図がある。意図をインタビューや資料で掘り下げていくのが映画評論家の本来の仕事である。意味が読み取りにくいところや前提となる知識が必要な作品はしっかり解説してくれる。文体や印象、イデオロギーには左右されない、ジャーナリスティックな映画批評。アメリカ在住の町山智浩さんならではの映画への愛と一次資料への近さ。名著です。まだ未読なあなたはラッキーです。映画が何十倍も楽しくなりますよ。

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