たぶん人生で必要なものはすべて大学で出会った
〈2015年9月撮影、31歳〉
大学の同級生達に送別会を開いてもらった
友情というのはどれくらい秘密を共有しているかで濃淡の決まるものである。
大学生時代の友人というのは互いの恥ずかしい過去を10個くらい知っているものである。
再会するとたいてい「イタい過去」の殴り合いになる。
僕もどうしようもない学生だったので、ブログにはゼッタイ書けない出来事や、墓場まで持って行きたい秘密のいろいろがある。ここぞとばかりに「イタい過去」の話でボコボコに殴られたので、へんな記憶の回廊が開いてしまった。で、翌日、懐かしさに駆られて、大学に行ってきた。なにも変わらない。タイムスリップしたようだった。しかし確実に、14年ほどの年月が流れたはずであるのだ。しかし大学はまだたしかにそこにあり、お世話になった教授は学科教授になり、講師だった先生は特任教授になっていた。時代は流れていくのだが、大学と大学のある町は変化が鈍い。猛烈な速さで変化し続ける都心とは異質な心地よい空間だった。大学のことを考える際にどうしても思いだすのが小田嶋隆さんの『大学へ行く理由』という文章である。以下引用する。
とすると、大学のキャンパスというのは、長い目でものを見ることのできる人間を育てる空間だったわけで、安倍さんはそこでしくじったから、大学を壊そうとしているのかもしれない。
建前論を言うなら、大学は、そもそも産業戦士を育成するための機関ではない。
労働力商品の単価を上げるための放牧場でもない。「じゃあ、何のための場所なんだ?」
と尋ねられると、しばし口ごもってしまうわけなのだが、勇気を持って私の考えを言おう。
大学というのは、そこに通ったことを生涯思い出しながら暮らす人間が、その人生を幸福に生きて行くための方法を見つけ出すための場所だ。
きれいごとだと言う人もいるだろう。
が、われわれは、「夢」や「希望」や「きれいごと」のためにカネを支払っている。
なにも、売られて行くためにワゴンに乗りにいくわけではない。(略)
採算は度外視して良い。
大学は、そこに通った人間が、通ったことを懐かしむためにある場所だ。
本人が通ったことを後悔していないのなら、その時点で採算はとれている。小田嶋隆『大学へ行く理由』
<2002年4月撮影、18歳>
美大なんて学費の異様に高い、就職率の低い大学に入ってしまったことを後悔はしない。なぜなら一生巡り会えないであろう友達と出会えたからである。
当時僕が住んでいたボロアパートもまだ建っていた。懐かしさでお腹が痛くなった。藤子不二雄の『ノスタル爺』の気分である。あの頃に帰りたい、とまでは思わないが、浸りたくなることもある。
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